霊肉界にまたがる夫婦生活その1 大平 鈴子(3億6000万双 霊肉界祝福)

  1986年に入教され、1992年に独身祝福を受けた大平鈴子さんは、1999年2月にソウルで3億6000万双祝福の時に霊肉界祝福を受けて、その6月に家庭を出発しました。大学でジャイナ教の研究をしておられた大平先生は、「霊肉界にまたがる夫婦生活」という膨大な原稿を書いてくださいました。
霊界のご主人と地上で一緒に生活しておられるという実感をもとにしたとても興味深い内容ですが、紙面の関係で、その一部を紹介させていただきます。

  一方は地上に所在を置き、また一方は霊界に所在を置く夫婦は、一体どのように愛し合っているのだろうか。これは誰しもが抱く疑問であろう。とにかく、夫婦の一方は姿形が見えない霊人であり、この霊人はどの方向からも、人でも、壁でも火でも水でも、いかなる物質をも通り抜けることができる存在なのである
そもそも、霊人と地上人の夫婦生活など成立するものだろうか。

 夫婦の一方が他界した後、一定の期間を経てから地上に再臨して、地上の配偶者や家族たちと生活を共にするケースが数多く報告され始めている現在、霊界と肉界にまたがって存在する夫婦の生活について、現在経験され、知られている事実を把握しておくことは、決して無意味なことではあるまい。

  私たち夫婦は霊肉界家庭であり、共に初婚である1999年6月に家庭を出発して以来、私はいまだに霊人の顔が、深い霧のむこうにある程度にしか認識できないままである。
「自分の顔を見せるのは、霊界に行くまでお預けだ」と夫は言う。別に気恥ずかしいというわけではないら しい。間題は別の所にあるようだ。霊人は、顔を思い浮かべた人の所へ、即、現れるのが霊界の原則になっている。
 何度も、わけもなく呼びつけられて、喜ぶ人などいるはずがない。それで、試しに、ぼんやりした輪郭の夫の顔に意識を集中して、夫の名を呼んでみた。すると、どうだろう。ドーンという音ならぬ音をたて て、夫が私の胸の辺りに転がり込んできたのである。二、三度同じ試みをしてみたが、結果は同じであった。

 それ以来、この種のいたずらをすることはやめている。夫の顔を知らなくても、生活に支障はないのである。夫婦間の霊的交流ができるからといって、霊界が地上人の霊的意識に自ずと開けてくるわけではない。霊界は以前と同じく、私にはさっぱり分からない世界だ。
  霊人である夫は、「死入」とか「死んだ人」とか言われることを嫌う。事実、生存目的も分からず、霊的に死んでしまっている普通の地上人は、日々苦しさを増してくる現実の生活に疲れ、活力を失っているのに対して、現在の摂理的意義を明かされ、明確な目的をもって地上に再臨している霊人たちは、不断の活力に満ち益れているようだ。

 再臨者たちは、かつての夫か妻、あるいは地上人と初めてマッチングを受けた夫か妻であり、地上で相対者や家族と共に生活することを許された者たちである。相対者やその家族を守り、彼らの摂理目的が達成されるよう協助することが、彼らに課された任務である。
  また、自らの堕落性を落とし、蕩減を通して完成実体となることも、再臨目的の一つである。それ以外の目的を地上でなすことは、どうやら禁忌に触れることらしい。
 当然、再臨者たちは、相対者や家族たちとの交流を早く深めたいと願っているに違いない。喉から手が出る程言いたいことが沢山あるのに、目の前にいる相対者は、見えない自分には全く目もくれず… という彼らの日々の状況を、立場を変えてみたなら、あなたなら先ずどうされるであろうか。

 霊人たちも、言いたいことが迫ってくると、幻視や、夢や、啓示や、性愛などの形で彼らの思いを訴えて来る。こうした形をとった訴えに対しては、地上人も自然に反応し、霊人もそれを了解しているであろう。 だが、霊界からの強い働きかけがない場合、霊人である相対者が近くにいるに違いないと分かっていても、見えないが故に、相互の交涜は不可能と諦めてしまっているのが、我々一般の現状なのではなかろうか。が、諦めてしまったら、何事もおしまいなのである。それでは霊界は働くことができない。

 霊界からは全てが丸見えなので、こちらがやる気さえあるならば、時を計らい、さまざまな状況を見なが ら、霊人たちは一定の成果が出るように、その環境を整えてくれるものなのである。だから、両界の二人の人間が互いに交流したいと願っている限り、いろいろな条件が重なって、十分ならずともある程度の成果が生まれないというはずはない。交流の仕方にもさまざまあろうが、その一つとして、私の体験した方法も、また、参考になればと思い、次に記してみたい。

 家庭を出発した頃は私も五里霧中で、名前だけは知らされていたが、姿も声もない相対者が、今一体どこにいるのか、いないのか、どう対応したらよいのか分からない毎日であつた。一ヶ月程過ぎたある日、真言宗である母のお寺で施餓鬼供養があり、私が母に代わって参加した時のことである。突然、私の身体の中から大きな声で経典を読む声が聞こえてきた。

 本堂では十数人の僧侶たちが読径をしている最中であったが、私のお腹の中の声も、これに合わせて張 りのある大声でお経を唱えている。さては夫か、と思った途端、私の中のお経の声も止んだ。
 帰宅する道すがら、二人の間で早速問答が始まった。私が質問し、夫がそれに「はい」か「いいえ」で答えるという単純なやりとりである。答えが「はい」なら私の右手を、「いいえ」なら左手を握ってくれるように、と私は先ず夫に話しかけた。

 これは、先祖霊が私たちの手に触れてくれる、清平での先祖解怨役事の行の応用である。私は両手を前に 差し出して、 「あなたは昔、憎侶だったのですか」と声を出して聞いてみた。答えは右の手のひらにジーンと返ってきた。それで、今度は手のひらを上にして、両手を前に突き出しながら、「あなたは真言宗のお坊さんでしたか」と大声で尋ねた。再び、右の手のひらにジリジリ、ビリビリと反応があった。

 施餓鬼を行ずるのは、真言宗か禅宗であると聞いている。これで、夫が真言宗の憎侶だったことが判明した。救われた思いであった。帰宅後、この「イエス」か「ノー」の二分法を活用して、出生地と他界地が共に熊本市であることを探り出した。日本地図を広げて、生まれたのは北梅道か、本州か、四国か、九州か、と順に聞いていった。「九州である」という。

 九州も北から一つ一つ県名を挙げていった。熊本県の態本市で生まれ、同市で死亡したことまでは分かったが、住職をしていた寺の住所は、町名が変わってしまったらしく、はっきりしなかった。生年月日、死亡 年月日についても、「生まれたのは明治時代ですか」、
「1900年前ですか」、「 1890年代ですか」と調べていって、確認することができた。

 一言云ってくれれば分かる簡単な内容を、相当な時間をかけて聞き出す必要があった。それも「イエス」 か「ノー」で答えられる場合にしか、この方法は使えなかった。それでも、相手について何らかの情報をつかむことができる。今でもこの方法は有効で、例えば、人の話を聞きながら、それに対する夫の「イエス」か「ノー」の反応だけを知りたい時に都台がよい。

 声を出さずに思いで質問できると分かったのは、大分後になってからで、それまでは人前で姿なき夫に声をかけていた。今でもその癖が出てきて、赤面することがある。

 夫はこの交流の仕方にうまく乗ってくれた。やっと私は相対者をまともに注視するようになったのである。 これこそ、夫が待ちわびていたことだったに違いない。
 その後、私の生活態度は変わらざるを得なかった。仏様用の小さなお茶碗や、お皿や、箸を、普通の男性 用のものに変え、私の分と同じ一人前の食事を毎回つくり、座席にいるであろう姿なき夫に話しかけながら、毎日生活するようになった。他人がこのさまを見れば、 「とうとう気が狂ったか」と思いかねない情景であろう。絵や彫刻などの展覧会にも頻繁に出かけた。早速二分法を使って、この作品をもっと見ていたければ右手に、次の作品に移りたければ左手に触れてもらって、展示室を廻りながら、見えない夫に声をかけながら品評をしたものである。

 霊人は、こちらの全ての状捉をつぶきに理解しているらしい。夫が私を誤解することは、先ず有り得ないと信じている。誤解するのは常に見通すことができない私の方であるが、「私が誤解している」という事実をも含めて、相手は常にこちらを丸ごと理解してくれているのだから、これ程気楽な、あり難い相手はいない。それで、霊肉界家庭にはケンカなどあるはずがない、と長い間信じ込んでいた。この事については、後述することにする。

 その後、二年ほど過ぎた頃、今までの二分法では、夫との意志の疎通が不十分で、差し迫っていたある計画を決行することが困難な事態に直面したのである。この時、ある人を通じて、思いで相互に明確な意志の疎通を計ることができるが、そのためには夫婦間の心情の一体化が、不可欠であると教えられた。それは 二〇〇一年の五月の終わりに近い頃であった。
 私たち夫婦間は、心情的には以前よりずっと近づいていたとはいえ、一体化などということからは程遠く、さてどうすれば二〜三ケ月の短期間にそれをなすことができるのか、見当もつかなかった。その計画を行うにあたっては、夫が私に一言、「こうしなさい」と明確な指示を与えることができさえすれば、何とかなるはずであった。

 それから、ふと思いついて、夫が私の身体に入り私の手を動かして、自動書記でその意志を表明できないものか、と夫に提案してみた。では、やってみようということになった。まさか、と思っていたが、それ が出来たのである。実際に私の右手を動かして、タドタドしくとも字が書けるようになるには、三日かかった。自動書記などができるとは、夢にだに思いもしなかったことであった。しかし、何事も挑戦してみるものである。

6月6日の記録に、私に言いたい事として、

1. やさしさ
2.くるしみにたえる
3.のんびりする 
4。ためにいきる 
とあり、6月20日付の7月の祈祷課題については、

1.かみさまにかんしゃ 
2.ごふぼさまにかんしゃ
3.りそうかていけんせつ

と記されている。

 また、この日、特に夫が私に言いたかったことは
「かていのみだれが、すべてのみだれのもとになる。
このことをいつもこころにいれておく」とある。
ケンカでもしたものらしい。

7月に入ってからの記録には、

1.みんななかよくする 
2.かていをたいせつにする
3.びんぼうむしやひやかしむしをきにしない
4.にんげんであることのたいせつさをおもう

などいう訓辞を垂れてくれている。

 今思うに、自動書記をするよう促したのは私だったのではなく、この方法なら出来ると考えた夫が、私にこれを提案するよう、事前に私の頭にインプットしてくれていたのではないか、ということである。

 問題の差し迫っていた8月の半ばまでに、私たちは逃れられない様々なことについての、複雑な意志の交流に明け暮れていた。そして、ふと気がついてみると、二人は立派に思いで通じ合っていたのである。習慣的に声が伴うことが多かったにせよ、声を出さずに、二人の心の間で意志の疎通は成立していた。