二世霊人祝福の恵みに感謝します 黒川雅代(6500双韓日家庭)

 2001年の8月31日に昇華した娘、黄修振が、4億双3次祝福式において、二世霊人祝福を受けさせていただきました。
 その八月、真のお父様は「過去のすべてを整理し、新しい出発をする非常に重要な八月である」と語られ、 済州道でご父母様主催の世界指導者修練会が開かれました。
 その最終日である8月31日には、「八定式」の記念式典が行われました。その日、清らかな祭物として、 修振が神様に召されたのです。

 幼稚園から帰ってきた修振は、「友達に分けてあげる」と言って、家にあったお菓子を抱えて出かけ、交通事故に遭いました。5年6か月の生涯でした。
 修振が昇華した日から12年前の1989年8月31日、お父様はアラスカのコディアクで「八定式」 を宣布されました。「八定式」とは、ご父母様が責任分担を完全に勝利して、地上世界だけでなく、霊界まで含めた天宙的長子権を復帰され、サタンが干渉できない直接主管圏に入られたことを意味します。

 その時、私はコディアクのノースガーデンで、ご父母様のご家族と一緒に、一週間ほど過ごさせていただきました。そこには、韓国の公職者と、韓国語の試験にパスした四十名ほどの日本のメンバーがいました。
 最初の夜、お父様は全体の前で私に「自己紹介をしなさい」と言われました。私は教授渉外をしていること、それからU-ONE・TVのキャスターをしていることなど、自己紹介をするとともに韓国語の歌を披露しました。お父様の前で歌を歌うのは、祈ることと同じでした。

 それからお父様が私に、「子供はどうするのか」と質問されました。その時は聖別期間中で、まだ家庭を出発していませんでしたが、私はとっさに「将来、息子2人と娘1人を生みます」と答えました。するとお父様は、「息子二人と娘一人」と確認するようにつぶやかれました。

 それから十二年間の間に、お父様にお答えしたとおり、二人の息子と一人の娘を神様より授かりました。三番目の子供が生まれた時、十二年前にアラスカでお父様と交わした会話がよみがえってきて、病院のベッドの上で涙があふれました。
 家庭を出発してからも、私は休むことなく仕事を続けていたので、三人の子供を生み育てることは、並大抵ではありませんでした。

 特に、二人目の修振を妊娠した時は大変でした。夏で、つわりがひどかったのですが、大学で日本語の授業を担当していたので、休むことができず、病院でリンゲル注射を受けながら、何とか乗り越えました。
 修振を生んだ日にも授業を勤め、出産一週間後には、教室の教壇にもたれかかるようにしながら授業をしていました。
 つわりをこらえながら主人の幼なじみの家を訪問して、本人とご両親に祝福について説明し、三十六万双 の祝福につなげることもできました。

 また、真のお母様が巡回講演をされた時、大学の授業の合間にタクシーを飛ばして会場のホテルに行き、お母様がお食事をされる時、手作りのデザートをお出しし、とても喜んでいただき、おいしく召し上がっていただいたことがありました。これもやはり、修振を妊娠中のつわりがひどかった時期です。

 修振を育てる中でも、多くの苦労がありましたが、そんな環境でも修振は笑顔を絶やさず、兄弟や友達の ために自分の持っているお菓子でも、おもちゃでも、何でも分け与えるような娘でした。
 幼稚園の先生からキャンディーをもらうと、それをお菓子の好きなお兄ちゃんにあげたくて、走って家に 帰ってきました。お菓子が二つあれば、一つを自分が食べて、もう一つをお兄ちゃんにあげるのではなく、お兄ちゃんをもっと喜ばせたくて、二つともあげていました。

 また、私が歯を磨いていると、コップにお水をくんで準備しておいてくれ、お風呂に入っていると、いつ出てくるかも分からないのに、お風呂場の前でタオルを持って、いつまでも待っていてくれました。
 幼稚園でも、掃除をしたり先生の手伝いをしたり、いろいろと奉仕活動をしていました。そして任された仕事は、最後まできちんと、一生懸命にやり遂げていました。いつもきれいな絵を描いては、日曜日の子供礼拝で、教会の壁によく張り出されていました。
 身の回りもきちんと整理し、夜、お風呂に入って寝るまでの短い間も、きれいに髪を結い、服をきちんと着て、まるで幼稚園に出かけるような姿で過ごしていました。

 弟が生まれてからは、弟をとてもかわいがって、あやし方は母親の私よりずっと上手でした。純粋な者同士、通じる世界があるのでしょう。赤ちゃんもきゃっきゃっと、身を躍らせるようにして喜んでいました。 そんな愛娘、修振が突然いなくなってしまったのです。
 いくら「祭物として神様にお捧げした」と理解しようとしても、あふれる涙を乾かすことはできませんでした。頬がぴりぴりしみるほど、涙が流れ続けました。
 いつも仕事で忙しい私に、「きょうは時計の針がどこまで来たら帰ってくるの?」と毎日聞いて、ひたすら帰りを待っていた修振のことを思うと、十分に一緒に遊んであげられなかったことが、かわいそうで、申し訳なくてなりませんでした。
 どうしていいか分からない、張り裂けるような胸の痛みを救ってくださったのが、清平で行われた昇華者二世三世の父母教育でした。毎日、ろうそくをともしながら、修振の霊人体の成長を一心に願いました。

 修振が昇華してからは、先祖解放も真っ先に清平に行き、これまで以上に積極的に行っています。
 2002年1月27日、聖日、美しい娘に成長した修振が、神様と並んで立っている姿を霊的に見ました。  2月13日、清平から、修振の約婚が決まり、15日が約婚式で、16日の祝福式において二世霊人祝福を受けさせていただけるという連絡が来ました。

 15日の夕方、清平に到着すると、ある一人の男性がまっすぐ私のほうに向かって歩いてきました。私はその人の顔をじっと見つめました。
 その日、約婚式が行われ、その男性が修振と約婚した相対者のお父さんであることが分かりました。
 修振は、1800双のご家庭のご長男と祝福を受けました。安賢民さんという、1977年に昇華された 方です。その当時はまだ、このような昇華者二世三世に対する祝福は行われておらず、賢民さんは長い長い 間、この時を待っていたのです。

 約婚式をされるために、訓母様は、ひざの痛みをこらえながら、多くの敬礼を捧げられたそうです。それを聞いて、涙が止まりませんでした。
 「昇華者二世三世の霊人祝福を受けた夫婦は、霊界でこのうえなく楽しく、幸福に暮らします」と、訓母様が語ってくださいました。
 子女を失った父母の心情ほど悲惨なものはありませんが、その心情までも解放する道を開いてくださった、 ご父母様、ご子女様、訓母様の精誠と犠牲とご苦労に対し、どんなに感謝しても感謝しきれません。
 修振の昇華式には、私が日本語を教えていた大学の教授が十二名、幼稚園の園長先生と先生方、そして住んでいる区域の婦人会の方々など大勢来てくださいました。そしてその厳かな雰囲気に大変感銘を受け、原理講論を読んでくださる方も現われました。修振は、重要な八月の最終日に、命をかけて伝道をしたのです。

  (祝福家庭2002年夏季号掲載)