夫の昇華7周年を迎えて 久保木哲子(430家庭)

2005年12月13日、久保木修己会長(当時)が昇華されて七周年を迎えます。そこで、母奉士
久保木修己会長の生前のようすと昇華後の心境などについて、奥様の久保木哲子先生に戸丸
厚生部長がインタビューしたものを整理したものです。

夫の昇華

 夫の昇華後の7年間は、本当に早く時間が過ぎました。昇華するまでの8か月間は、夫が
脳梗塞で半身不随でした。その前の6年間は、人工透析をしていました。6年間のうちの4年間
は血液透析、残りの2年間は腹膜透析をしていたのです。
腹膜透析は、健康管理から食事の管理、体重管理と、とても大変です。それを2年間やりました。
最後に半身不随になって8か月間、看護した後、昇華したのです。夫は67歳でした。
 皆さんは、「惜しかった。もう少し長く生きてほしかった。」とおっしゃるのですが、わたしとして
は、看護のために百パーセント、夫に身をささげた実感がありましたので、思い残すことは
ありません。

 入院してからも八か月間、朝の八時から夜の八時まで、毎日、一日も欠かさず、病院に詰めて
夫の看護をしました。そのようなことをする人は、今はいないそうです。一日も欠かさず、病院
でずっと看護したので、病院のかたは驚いていました。
 「奥様のご主人への献身ぶりを見ていると、よっぽど若いころ、ご主人から愛されたんですね。
見ていて分かりますよ。」と言われました。わたし自身も、夫のために尽くしたという実感が
あります。
 夫が昇華するときの事情は、活字にはできないものがあります。そのとき夫は、文先生から願
われていたことを果たそうとしていました。そのような事情は、皆さんご存じないと思います。

 人間は100歳、120歳まで生きることが素晴らしいことなのではなく、たとえ67歳であって
も、その人がどのように生きたのか、最期がどうであったのかということが、やはり重要では
ないでしょうか?
 「若くして亡くなって残念でしたね。」と、皆さんおっしゃってくださいますが、わたしは
「いいえ。」と申し上げます。最も重要なときに、夫は天に駆け上っていったのです。
地上で半身不随になって、どうにもならなくなった夫は、「地上での使命は終わった。早く霊界に
行ってやることがある。霊界に行かなければ。」と言って、その夜中に亡くなったのです。

 昇華する3日前の12月10日ごろは、とても順調に快復していた時だったので、正月は家で
迎えようと計画していた矢先に、急に夫は霊界に行ってしまったのです。これは、時を知って昇華
したとしか、わたしには思えないのです。
 夫は生前、「すまないな、ママに本当にこんなに迷惑をかけた。すまない、すまない。ありがとう、
ありがとう。」と言っていました。どれほど「ありがとう。」と言われたか分かりません。
 ちょっと何かするだけで、「ありがとう、ありがとう、すまないな。ママ、申し訳ないなあ。」
と言うので、わたしは「どうして、そんなこと言うのですか? 当たり前でしょう。」と言いました。

 夫は、本当に喜んで、苦しみもせず、安らかに逝きました。ちょうど、ろうそくの火が小さく
なって消えていくような、静かな死だったのです。
 わたしは、自分の兄の死を知り、朴鍾九先生(通称、タイガー朴=三六家庭)の死を知って
います。また韓国の劉孝元初代協会長の死を目の前で見ているので、人間が死ぬ時の苦しみを
知っていました。
 わたしの兄は、二十歳で肺結核で亡くなりました
肺結核は、肺で息ができなくなっていくので、本当に苦しそうにして息を引き取ったのです。
 ですから、人間は生まれるときも、とても苦痛の中で誕生するけれども、人間の死もまた
ものすごく苦しいものであると思っていました。でも、夫の死はあまりにも静かで、苦しまない
死であったのです。それだけでも、わたしは本当に幸せでした。
夫が亡くなったといっても、全然亡くなったという気持ちがしないのです。亡くなったけれども、
わたしの中に入ってきてくれているというか、共に一体になったという気持ちなのです。

  霊界からの夫の協助を実感

 わたしの人生を振り返ると、結婚後、夫は野球の監督をしていました。その後は、立正佼成会
の庭野日敬会長の秘書になって全国を巡回していたので、本当に一緒にいるということがあまり
なかったのです。
 野球の監督時代、夫は、ずっと選手と一緒に鹿児島や宮崎に遠征して試合や練習をして、冬の
期間しか帰ってきませんでした。
 このように、離れ離れで過ごしたことが多かったので、統一教会に来てからも、夫は巡回や
会議、修練会などで帰ってこないことには慣れていました。そのような夫婦だったので、いつも
新鮮でけんかもしないでよかったのかもしれません。

 このように互いに離れ離れの生活が多かったので、夫が霊界に行ってから、わたしは夫を独占
して、365日ずっと共にいて、どこにも行かなくなったという感じがするのです。
ですから、「おはようパパ、きょうも元気で頑張ります。きょうはここへ行って、こうしてああ
して。」とまず夫に報告します。食事も三度、三度、陰膳を据えるのではなく、夫の箸も一緒に
出して一緒の食事をしているので、夫と共に食事をしているという感じがします。
このような生活を通して、わたしの願いとか祈りとかを聞いてくれているということを実感する
のです。
それは、不思議なほどです。わたしが女性組織の会長になったのは、夫が亡くなってすぐでした。
わたしは、一生の中で夫が霊界に行ってからの七年間が、いちばん健康なのです。皆さんが
びっくりするほど、本当に健康になりました。

 それまで、わたしはいつも頭痛が持病でした。胃が弱くて食が細かったのですが、今はこんな
に太ってしまいました。健康な証拠です。ですから、何でもおいしく食べることができます。
 今のわたしの仕事は、とてもハードです。国内、海外、とにかくハードなスケジュールを
こなしているので、これも健康だからこそ可能なのです。
 以前、四柱推命で観てもらった時、夫は85歳までは優に生きられると言われたのですが、
それよりも18年早く昇華しました。

 そのとき、わたしも一緒に観てもらったのですが、わたしの命は69歳までであると言われた
のです。わたしの母も69歳で、夫のお父さんも69歳で亡くなりました。
 ですから、わたしの寿命は、69歳であると思っていたのです。そのため、70歳の誕生日を
迎えるまでは不安でした。70歳を超えたときは、夫がわたしに命をくれたので、現在、74歳
を迎えていることを感じます。わたしのもっている寿命よりも、長生きさせていただいている
のです。

 夫婦は一体だから、夫の生きられる85歳までの生命をわたしが頂いているのでしょう。
そんな気持ちでいます。七年間一度も病気にかからず元気に過ごしています。
 夫がいるときは、わたしは夫とともに車の生活でした。どこに行くにも車を使っていました。
ところが、夫が亡くなってからは、わたしには車はありませんし、運転もできません。
ドライバーをつけて、車に乗るということもしていません。
 ですから、どこへ行くにも自分の足で移動しているのです。それが、まず健康の秘訣では
ないでしょうか?
   夫が亡くなってから、周りの人から健康診断をしたらよいのではないかと言われました。
それまでは、夫の看病で精いっぱいで、一度も健診をしたことがなかったのです。それで、
70歳になって健康診断をしました。
 検査の結果、幸いなことにどこにも問題がありませんでした。それから、毎年するように
しています。今年も健康診断は終わりましたが、どこにも何の問題もありませんでした。
 74歳で何も異常がないということは、天に守られ、夫に守られているということであると
思うのです。毎日が感謝で、忙しくみ旨をやらせていただけるのは、夫が本当に頑張って
ほしいと、わたしに協助してくれているからだと思います。

 わたしの使命の一つは、人様にいつもお話をすることです。きょうは、どういう話を
したらよいのだろうかと、夫に相談します。あるとき、本棚にあるファイルを引き出すと、
そこから何かが落ちてきました。
 拾ってみると、そこには夫の詩や断片的な文章が記されてあるのです。それを読むと、
きょうお話をするのに、ぴったりの内容が書かれていました。正に、祈り求めれば答えが
返ってくるという感じです。
 講演は、一時間半とか一時間とかよくするのですが、聞いてくださるかたが、「かつての
会長が話しておられるような感じで受け取りました。」と、皆さんに言われるのです。
いつの間にか、わたしが話す内容が政治的なものになっていることに驚きます。

 夫は、生前、日本が抱えている課題、日本はアジアや世界にどのようにしていかなければ
ならないかをいつも話していました。ですから、わたしがいつの間にか意図せずに政治色の
強い話をしていることを通しても、本当に夫が協助していることを感じるのです。
 先日、鹿児島で講演会がありました。その講演で与えられた題目が、「日本の再生を
目指して」でした。このようなテーマは、わたしの夫が講演するような内容です。

 わたしは、その講演で戦後六十年、還暦を迎えた日本が、再生、改革、転換をしなければ
ならない時であることをお話ししました。それと同時に、国家、社会を構成している最小単位
の個人が再生しなければならないことをお話ししたのです。
 一時間ちょっと講演してきましたが、本当に講演の内容も夫が背後から協助してくれて、
わたしが話しているということを感じました。

夢で知らされたこと

 夫が霊界に行くまでは、霊界の存在は信じていても、霊界の存在をあまり実感しては
いませんでした。でも今は生活の中でいつも霊界を実感するのです。
 夫が昇華してから二年間ほどは、夫は夢によく出てきましたが、今は全く夢にも出てきません。
 夢に出てくるときは、本当に若い時の姿で現れます。人生でいちばん花盛りの四十代か
五十代、全国勝共講演会をしていたころの姿で、夫が夢に出てくるのです。
 ほかのかたが見る夫の夢も、そのくらいの年齢で夫が現れるそうです。あるかたが、
夫の夢を見たというので、電話を下さいました。

 夫は中国の天安門広場で、四十代、五十代の若さで法王が着ているような紫色と白の
ガウンを着て現れ、ものすごい歓声と拍手の中で大衆に向かって、夫が手を広げて講演を
しているという夢です。
 わたしたちは、中国の国家的メシヤですから、夫も中国のことが心配なのでしょう。
夫は、亡くなる前もよく「ありがとう。」と言いましたが、元気な時もいつも「ありがとう。」
と常に言っていました。家族に対しても、夫は言葉遣いがとても丁寧でした。

 夫は、わたしに対して敬語を使っていたので、病院のかたは真顔でわたしに、「奥様、
ご主人は家でも、あのように敬語を使ってお話しされるのですか?」と聞かれました。
「それが当たり前になっています。」と答えると、「ごりっぱですね。」と言われました。
 夫がわたしに対して敬語を使うようになったのは、1968年に430双の祝福を受けて
からです。日本で最初の祝福家庭でしたから、韓国の36家庭の婦人たちから、いろいろ
と夫は指導を受けたのです。
 「今までの奥様であると思ったら、とんでもない。奥様に対しては敬語を使いなさい。
そして、霊的に神様の相対となった婦人を頂いたということを忘れてはいけない。」などと
言われたのです。それから、夫は敬語を使うようになりました。

夫が昇華したのは、12月13日です。十の位を取れば、二と三数です。夫の誕生日は、
二月三日です。夫には、二と三という数字が付きまとっているようです。
 それは、夫の死亡届を区役所に出しに行ったときに、特に実感しました。区役所で手続きの
順番を待つために票をもらいました。その番号を見て驚いたのです。その番号が、二十三
だったのです。このとき、改めて夫は二と三という数字と深く関わりをもっていることを
感じました。
 ですから、夫は67歳で昇華したのは早過ぎるかもしれませんが、この日に昇華するように
なっていたのではないかと思うのです。

「積善の家には必ず余慶あり」

 夫は昇華する少し前に、わたしに紙と鉛筆を持って来させて、「積善の家には必ず余慶あり」
と書くように言いました。この言葉が、夫の遺言となったのです。
この言葉は、中国の古典『易経』にある言葉ですが、これは「善行を積んだ家庭には、必ず
幸せが舞い込み子孫までその恩恵にあずかるようになる。」という意味です。
夫が昇華して7年がたちますが、年を取った夫婦が海外旅行をするのを見ると、ふと
うらやましく思うこともあります。でも、夫が元気でいても、夫はみ旨一途の人でしたから、
観光旅行をするはずもありません。
 真の父母様は、最期まで最前線に立たれて霊界に行くとおっしゃるように、夫もそうで
あったと思うのです。
 ですから、夫と共にこのみ旨に参画することができ、今もこのようにわたしが健康でみ旨に
励むことができることを、神様と真の父母様に心から感謝しています。霊界にいる夫と共に、
「天一国」創建のために、これからも頑張ってまいります。

ファミリー2005年12月号掲載